2019年5月9日木曜日

育児情報誌mikuを振り返るー休刊にあたり

育児情報誌miku 創刊号から53号まで、全表紙
2018年3月に事業を絵本ナビ様へ譲渡し発行元ではなくなったものの、編集は引き続き担当させていただいていた育児情報誌mikuでしたが、5月7日、絵本ナビ様より紙媒体としての発行を休止する旨のお知らせがありました。
mikuへの思いについては、妻であり編集長であった高祖常子が本人のブログー「育児情報誌miku休刊のお知らせ」~感謝を込めてーで綴っていますので私は別な視点からmikuについて振り返ってみようと思います。

ブライト・ウェイがmikuの編集を引き受けたのは、2005年の創刊2号目から。創刊の1号を除いて、14年間通算52号の編集に携わってきました。 その間、発行元はコイル→ベネッセコーポレーション→ブライト・ウェイ→絵本ナビと4社に引き継がれました。mikuの14年の歴史のうち2010年春号~2018年春号までの8年間がブライト・ウェイが発行元でした。ベネッセコーポレーション様(以下ベネッセ)から事業を引継ぎ、絵本ナビ様へ事業譲渡するまでの8年間の試行錯誤を振り返りたいと思います。


1,編集方針の見直し


私自身はリクルートでの編集経験と創刊経験(パッケージソフト・ケイコとマナブの創刊編集長)、独立後もSkymarkAirlinesの機内誌編集長など長く編集に携わってきましたが、発行人(事業責任者)になるのは初めてのことです。2010年3月発行20号よりブライト・ウェイの発行となるのですが、発行を継続しながらいきなり大きな変更はリスクも大きいので、編集・印刷・物流などの体制はそのままで、まず編集方針の見直しをしました。
それまでのmikuは「自分なりの子育てを見つける」 でしたが、これを「子どもと私が育つ!楽しむ!育児情報誌」としました。
そして記事と広告を明確に分けました。パブリシティやプレースメントは基本的に無くし、記事は完全独立。個別商品やサービスは広告(ペイドパブリシティ=タイアップ記事広告)としてのみの掲載としました(プレゼント賞品除く)。これにより、広告を掲載する意味が明確になりますし、読者には記事の信頼性も上がります。

ここまではソフト面の変更、編集作業で対応できますが、事業としての見直しはマーケティング行為そのものです。読者像を設定し、その読者に求められるmikuの姿を設計しビジネスとしてデザインする作業です。編集方針と記事ラインナップ、それを納めるパッケージとしての判型・開き・色数・紙質・紙厚、手に取ってもらうための配布エリア・ 配布場所・発行サイクル・配布方法、そしてそのコスト(mikuはフリーペーパー)…

 2,より多くの読者に届けるために


広告主・代理店さんからすれば、媒体の価値はその読者属性と数です。しかし、部数を増やすためにmikuの設置場所・配布場所をむやみに増やすことはしませんでした。mikuを手に取って、自分が思った本ではないなと思えば元に戻せる(必要の無い人が持ち帰れば捨てられるだけです)落ち着いた場所で、しかもこちらからお願いするのではなく先方から希望されて初めて設置するということにしました(イオン ファンタジースキッズガーデン様だけは、こちらからお声かけさせていただきました)。同時に、それまで一都三県に限定していた配布エリアの制限を撤廃しました。
企業の福利厚生や保険組合からの問い合わせ、希望も多くいただきました。小児科の先生や保育関係者の口コミなどにより徐々に設置場所は広がり、1年半ほどで47都道府県で配布されるようになりました。
それでも、近くに配布されていなければ、送料のみ120円での取り寄せもできるようにし、育児サークルには毎号5部を1年間送付するサービスを開始。ピーク時には50サークルほどに発送していました。
また、自治体の子育て支援に役立てていただこうと、希望する自治体へもmikuを送付していました。

毎号、各設置場所に何部配置し、何部残ったかをチェックし、できるだけ無駄の出ない配布を目指し、90%前後の消化率を維持しました(100%になると、空のラックだけが残り、他の物を入れられたり撤去されたりしますから、ちょっと残るというのが理想です)。
最終的には13万部の発行でしたが、11万部前後を読者が持ち帰り、小児科の待合室やファンタジースキッズガーデンなどで待ち時間にmikuを読んでくれた人を加えると、読者は13万人を優に超えていたはずです。

3,コストをいかに抑えるか



多くの読者にmikuを届けるために部数を増やし配布エリアを広げれば、それだけ印刷・流通コストも上昇します。リクルート時代にさんざん鍛えられた印刷の知識を駆使し、凸版印刷さんと印刷単価の交渉に臨みました(これはちょっと複雑なので詳細は割愛します)。
そして印刷用紙の変更。紙の値段は単純に言えば重さ1kgあたりいくらという設定です。ページ数が多ければ多いほど、部数が多ければ多いほど紙をたくさん使いますが、最終的な購入総額は重さで決まりますから、単価が同じなら厚さの割に軽い紙や薄い紙を選べば使用した紙の面積は同じでも総重量は軽くなりコストは下がります。更に、10万部を超える部数ですので輪転機で印刷するため使用するのはロール紙になります。巨大なトイレットペーパーのような形状のものです。これは、印刷のタイミングに合わせてロール単位で注文し作ってもらう(抄造と言います)ので、少ししか使わなくても1本買い取りです。

読者に手に取ってもらえたときに、その手触りや 印刷の仕上がりが「mikuらしい」と思ってもらえる紙を求めてたどり着いたのが「ペガサス バルキー8」という、日本製紙石巻工場でのみ生産している紙です。石巻工場は東日本大震災で津波の被害に遭い、一時期操業を停止していましたが、懸命な復旧を経て半年後に一部再稼働、1年後には完全復旧を遂げています。日本製紙石巻工場の復興ドキュメントが報道番組で流れたときには、画面を見ながら涙がこぼれました。mikuもペガサス バルキー8の抄造が再開されるまでの2号は、やむなく他の紙で代用(こちらの方が少し安い)していましたが、2011年冬号からは再びペガサス バルキー8に戻りました。

印刷の単価が下がっても無駄な台割りや面付けをするとコストは下がりません。スーパーで安いからと無駄な買い物をするようなものです。毎号ギリギリまで台割りや面付け、使用する紙の厚さ、使用するロールの数を細かく調整しながらコストを最小限に抑えるようにしていました。
こうして決めた単価に対し、8年間で数々の印刷会社から見積もり提案を受けましたが、検討に値する金額を出せたところは一つもありませんでした。

印刷だけでなく、配布も膨大なコストです。ベネッセさんから引き継いだ当初は一都三県1,000カ所ほどだった配布先が、全国2,600を超える配布先になりましたので数は単純に2.5倍、配送距離は数倍です。単価の交渉、委託先・配送方法・配布のタイミング の見直しなどでコスト上昇を抑えました。

4,売り上げを確保するために


これが一番の難関でした。
ベネッセさんから引き継ぐ際には、広告主様もそのまま引き継げるものと思っていましたが、そうは問屋が卸しません。まず、ベネッセさんは全て代理店さんを通しての取引でしたので、引き継げたのは個別のクライアント様ではなく代理店さんの窓口、しかもほとんどは営業担当でもなく媒体部(雑誌担当)の窓口でした。
代理店の媒体部との関係を維持・強化しつつ、実際の営業先の開拓をしなければなりませんが、ほとんど新規の開拓はできず(私の本業もあり、mikuの営業は片手間でした)、事業スタートの際に借り入れた1,000万円は編集・印刷費や配布費用ですぐに底をつき、追加融資や生命保険の解約でしのぎました。しかもこの間はお客様との商談にもこぎつけられなかったので、何が悪いのか、お客様のニーズは何なのかさえわからず時間と制作費だけを浪費して2010年が終わろうとしていました。

このまま続ければ赤字が膨らみ、続けるには借り入れを増やさなければならないという、自転車操業に陥ってしまいます。だからといってどうしたら売れるかがわからないままに季刊誌のmikuのために営業を雇うのはためらわれました。といって私が本業を疎かにしてmikuの営業に集中することもできず、悶々としていました。そんなとき、たまたま出席したリクルートOBの忘年会で、完全成果報酬型の営業代行業をスタートした後輩と出会ったことで目の前が一気に開けました。営業先の候補リストを用意すればアポイントを取ってくれるのです。アポイントさえ取れて直接話ができれば、仮に売れなくても何が悪いのか、どうすれば良くなるのか、お客様が求めているのは何かが掴めます。

それまでも、mikuの設置場所をサイトで公開したり、タイアップ広告はサイトにも無料で掲載するなどの改善を加えてきましたが、そういう改善したことすらお客様に直接伝えることができていません。まずは直接会って媒体の説明をすることがスタートです。

専任の女性アポインターを付けて貰い、私のスケジュールを共有し、動ける時間にアポイントを入れて貰いました。アポイントが取れれば関東圏だけでなく関西や東海へも出かけ、媒体説明と商談を繰り返しました。その結果、2011年春号でなんとか単号黒字(と言っても原価を確保しただけですが)となり、これ以上の出血を停める目処が立ったとこの時は思いました。
しかし、この号はまた別の意味で記憶に残る号となりました。常子のブログでも書いていますが、 配布開始直後に大きな出来事が立て続けに起き、特に東日本大震災は日本経済にも大打撃を与え、夏号以降に掲載を検討していただいていた飲料メーカー様は新商品の発売を取りやめたり、やっと扉が開きかけた東京電力様もそれどころではなくなったりと、日本中が自粛ム-ドとなり、再び赤字に逆戻り。それでもやがて自粛ムードは和らぎ、順調にアポイントを重ねることで、売り上げも安定してきました。

一度面会し、名刺をいただいた方には、1~2週間おきにmikuの役立つ周辺情報(次号記事ラインナップ・スケジュール・読者アンケートの結果など)をメルマガの形で継続して送らせていただきました。読者アンケートでは、世の中でも話題になっているようなことや関心が高いことを尋ね、結果をニュースリリースとしてメディアにも公開していたので、度々新聞やテレビでも紹介され、編集長がコメントすることも増えてきました。今年の中学校の教科書にもデータ引用されたりもしています。

地道な積み重ねで、最終的にはメールや電話で直接連絡が取れるクライアント様や代理店ご担当者は500人を超えました。初めて名刺交換をして1年後に先方から発注のご連絡をいただくというようなことも出てきました。

5,事業譲渡を考えるきっかけ


mikuの認知度も徐々に上がり、miku編集長であり子育てアドバイザー、そしてオレンジリボンやファザーリングジャパンの理事でもある高祖常子は、様々な所からお声かけいただき講演やセミナーに登壇する機会が増えてきました。

猛暑の2016年、お盆休み期間中に登壇したあるセミナーで事件は起こりました。講演後に常子が熱中症で倒れてしまったのです。たまたまこのセミナーが医療関係の主催者だったおかげで適切な処置をしてくださり事なきを得ましたが、これを機に「もしも」の時を考えるようになりました。
この時mikuは、編集に関わる部分は常子が、それ以外は営業を含め全てを私がコントロールしていました。もちろん、外部のスタッフや協力パートナーがいますが、二人のうちのどちらかが事故や病気で倒れたらたちまち立ち行かなくなります。二人とも永遠に仕事を続けられるわけではありませんし、既にそれなりの年齢です。もっと組織としてしっかりした体制で発行を続けられるところにmikuを委ねる方が、読者やクライアント様にとっても安心できるだろうとの思いが強くなりました。営業についても、私が一人で動くよりももっと効率よく良い数字を獲得できるに違いありません。

この事件をきっかけに、mikuを引き受けてくれる企業を探し始め、翌2017年に絵本ナビ様が名乗りを上げていただき、2018年の事業譲渡となりました。

6,mikuのこれから


絵本ナビ様は、「レスポンス」や「リセマム」「RBB TODAY」などを運営するiidグループの会社です。iidグループはインターネットをプラットフォームに、様々な情報やサービスを提供し、今後はモビリティに軸足を置いた事業展開を視野に入れているようです。
紙のmikuは無くなりますが、mikuが提供してきたコンテンツ・情報のニーズがなくなったわけではありません。コンテンツの配布ツールが紙という形のある物からデジタルな空間への移行が完了したと考えれば良いのかもしれません。mikuの読者アンケートが、はがきからFAX、ネットに移行したのと同じ事です。残念ではありますが、これも時代の流れです。
印刷や物流コストが無くなり、大幅なコストダウンですから、経営判断としては当然の選択です。今もmikuが私たちの手元にあれば、このような決断は難しかったでしょう。まさに、「イノベーションのジレンマ」を地で行くような話です。

今後、mikuが絵本ナビスタイルの中でどのように位置づけられるのか、どのようなサイクルでコンテンツが更新されるのかはまだわかりませんが、現在もmikuの取材・執筆は進んでいます。

引き続きmikuをよろしくお願いいたします。