2017年11月20日月曜日

九州北部豪雨で被災した親族の見舞いに行って……

7月5日16:30羽田発の便で、玄界灘上空から見た線状降水帯
他の雨雲よりも遥かに高く沸き上がる積乱雲の帯
今年7月5日の九州北部豪雨は、朝倉市~日田市にかけて甚大な被害をもたらしました。
この豪雨で朝倉市杷木町に居を構えていた私の従兄弟宅も被災、住めなくなり引っ越しを余儀なくされました。あれから4か月、ようやく諸々落ち着いたというのででふくやの明太子を手土産に、両親を伴い見舞いに出かけました。

引っ越し先は杷木から筑後川を挟んだうきは市。近くには親族も多く住み、私の母の実家もある、土地勘のあるところ(私もうきは市吉井町生まれです)。タイミング良く空き家になった農家を紹介して貰ったといいます。昔からの農家の家なので、築70年とはいえ柱も梁も立派な材料が使われていてほとんど狂いもなく、地震で傾いてすきま風だらけの我が福岡の家とは大違いです。ただ、古い上に老人の一人暮らしだったため家電やIT器機もほとんど使わず、コンセントが各部屋に1つずつしかなく、増設などの電気工事は必要だったそうです。もちろん、エアコンもありません。今年一番の冷え込みの日でしたが、被災した家に配られた石油ストーブの温かい部屋で、できたばかりの干し柿を食べながら被災時の状況を聞きました。

裸足で片付け中にNHKの取材を受ける


7月5日、大雨が降り出した最初の頃は道路を雨水が勢いよく流れ、玄関先に様々なゴミや木の枝が流れてきて、それを取り除いたいたようです。しかし見る間に道路を流れる水の水位は上がり、やがて大きな木が流れてくるようになり、最後は泥水というより土砂が押し寄せ、家の中に。水害時の鉄則は上に逃げること。2階に避難し難を逃れたものの、翌朝下に降りると1階はほぼ壊滅。畳は浮き上がり、家財道具は流され、畳から約30cm上のところまで土砂で埋まっていたといいます。
靴も全て流され、裸足で片付けをしているところにNHKの取材を受け、それが全国放送で流れました。


被災直後は全てのインフラが寸断され、被災地では水も食料も途絶えています。固定電話は当然不通。携帯電話は、防水のガラケーだったことが幸いしました。一度腰まで水に浸かってしまい、その時にも携帯電話を身につけていましたが、ドロドロにはなったものの電話は生きていたのです。ガラケーですからバッテリーも長持ちします。電気は早期に復旧したので水に浸からなかった電化製品などは使えたようです。その一つが井戸水をくみ上げるポンプ。たまたま高い所にポンプを設置していたのと、深い井戸を掘っていたために、早い段階に綺麗な水(他所の井戸は濁っていた)を確保でき、泥だらけになった道具や家財、作業後に体を洗ったりと近所の人の役にも立ったと言います。汚れたまま避難所に戻ってもそのままでは上がれませんし、折角、原鶴や筑後川温泉で被災者に無料でお風呂を開放しても、全身泥だらけで旅館の中に入って行くのははばかられます。作業を終えて水で泥を洗い流せるのは助かったといいます。衛生上の確認は取れていないので飲み水としては使わなかったそうです。

放送された事による災難


被災直後は、生き伸びることに精一杯。その家に住むことを早々に諦め、家の中から貴重品や使える物を探しだし、行方のわからなくなった大事な物を掘り出す作業に追われていました。そこにNHKのニュースでたまたま見た、遠く関東の親族や昔の友人からも心配して携帯に電話がかかって来ます。実はこれが大変なストレスだったのです。
必死で作業をしているところにかかってくる電話。泥だらけの手で電話を取ります。心配してくれているので無下にもできない、しかし、早く電話を切って作業に戻りたい。いつまた雨が降ってくるか、土砂が流れてくるかもしれないという恐怖の中です。のんびりと話をする気分では無かったと言います。ある人からは「怒ってるの?」と聞かれたそうです。怒っているのではなく、余裕が無かったのだと。

NHKの取材時に「これは放送されるの?」と確認したそうです。「放送前に連絡します」と言ったのに、何も連絡無しに放送されたと憤っていました。

道路が通れる様になってから、知人や心配した人が尋ねてきてくれたけれど、それも負担だったようです。見舞いを持って来てはくれても、手伝いに来たわけではない(皆年寄りです)ので手が止まるだけ、有り難いけれど何のもてなしもできない負い目。私も水害から3日後に連絡せず訪ねて行きましたが、道路にはまだ水が流れ、路面は泥で被われぬかるんでいました。途中から時折タイヤが空転、横滑りもするようになり、このまま進めば動けなくなってかえって迷惑をかけてしまう、と近くまで行って引き返しています。この話を聞くと、たどり着かなくて良かったと思いました。
その点、作業のためにやって来てくれるボランティアの皆さんには、本当に感謝だと言っていました。

大きな災害の直後、被災地・被災者がどのような状況にあるのか?何を望んでいるのか?当事者は私たちには思いも寄らないところでもストレスを感じていたということを改めて知ることができました。

8月、復活した直後の三連水車
周囲にはまだがれきが
近くのセブンイレブンの駐車場には自衛隊のトラックが何台も止まっていました。東峰村を始めとして、杷木も山田もまだまだ被災地は復興の途中です。
昨日、復興のシンボルとなった朝倉の三連水車が解体され、来年の田植えシーズンまでの間休息に入ったとニュースで伝えていました。私たちが三連水車の横を通ったときには、既にその姿はなく、シーズンオフのダミーが設置されていました。


来年はこのような災害が起こらないことを祈るばかりです。